声なき声を聴く少女




 幼い頃から繰り返し見る夢が、リアナにはあった。

 塗りつぶしたみたいに、唐突に視界を埋め尽くす白。
 それで、ああ、またか、と夢の中で気づくことすらある。 
 そこは、ただ真っ白な世界だった。空と大地の区別もない。視界に入るすべてが、それ以外の色彩を持たず、なんの質感もない。
 あるいは、白、という認識すら誤っているのだろうか。そこには何も、本当に何もないのだ。リアナ一人だけが、何かの間違いのようにぽつんと取り残されている。
 それがいつまで続くのか、終わりがあるのか。たとえ夢と気づいていたとしても、どうしたってその恐怖にとらわれる。このまま二度と夢が覚めなかったら、と。
 リアナにできることは、ただ悪夢の終わりを待つことだけだ。
 膝を抱え、茫洋と広がる白を見ないようにして。思考を空っぽにしてしまうのが怖くて、殊更にとりとめのないことを考える。昨日の夕食がなんだったとか、読んだ本のあらすじ、何年も前の友人との会話や、ひどいけんかをしたことも。
 けれども、夢の中の意識はいつだってふわふわと曖昧で、時折、不思議な断片が紛れ込んだりもする。

『忘れないで。君はもう、ひとりじゃないんだよ』
 晴れた空のような碧い瞳を優しく細めて微笑んだ人。
『笑っていてほしい。不思議だよね、あたしたちはそう願わずにはいられないんだ』
 遠い星空の下に響き渡る、いくつもの懐かしい歌、温かな音。
『ねえ、かえしてよ……母さんを、みんなを……なんで、どうして』
 焼け落ちた森に呆然と立ち尽くす、幼い少年。

 いつか、何処かの。自分のものでないはずの幾つもの場景が、さながら記憶のように鮮やかによぎることが、その夢の中ではしばしあった。
 永遠のようにすら思える夢の、ほんの一瞬。目が覚めた時にはほとんど忘れてしまっているけれど。



 ぱちり、と。何かに弾かれたように目を開いた。
 リアナの、花を溶かしこんだような薄紅色の瞳が映すのは、一面の白ではない。薄暗がりにぼんやりと浮かぶのは、見慣れた天井の木目だった。
 硬い寝台を軋ませながらゆっくりと身体を起こせば、覚えず心臓が早鐘を打つ。夢の残滓を吐き出すように、リアナは深く息を吐いた。
 外はまだ日も昇らぬ時刻であるけれど、そろそろ身支度を始めてしまうことにする。今朝は、リアナの暮らす孤児院の掃除当番に当たっているのだった。
 枕元に畳んでおいた、裾のふわりと広がった綿のワンピースに袖を通し、花染めの毛糸で編まれたカーディガンを羽織る。肩先まで伸びた蜂蜜色の髪を手櫛で軽く整えると、未だ夢の中にいる子どもたちを起こしてしまわぬよう、慎重に二段ベッドの梯子を下りた。
 今日の当番は、本当はリアナではない。本来の当番であった少女が熱を出して伏せってしまったために、代わりを頼まれたのだ。
 過ぎ去った冬の置き土産なのか、孤児院では殊更に風邪が流行っている。寒さの緩むこの時期、我先にと薄着をしたがる年少の子どもたちが一人二人と風邪をひくのは毎年のことではあるけれど、今年はそれがいやに多いのだ。
 同室の子どもたちの寝息が一様に穏やかであるのに安堵しつつ、リアナは部屋を後にした。


 箒を片手に孤児院を出て、表通りの教会へと回る。
 夜の名残がほのかに残る教会前の通りには、リアナのほかに人影はなかった。
 通り沿いにはシェリと呼ばれる木々が植わっていて、春になると一斉に淡い黄色の花をつける。見れば、その花弁が幾らか石畳の上に散らばっていた。今朝はこれを片付けるのが主な仕事になるのだろう。
 まばらに花の残った木々たちを見上げ、だけど、おかしいな、とリアナは思う。咲いて散るまでが、今年はいやに早いのだ。いつもであれば、花が散るのはもう少し春が深まってからだ。花の落ちた後にはやがて実が膨らみ、鳥たちはその実を目当てにこの教会や孤児院の周りに巣を作り、雛を育てる。
 これでは鳥たちが来るより先に実が落ちてしまいそうだ。
 そんなことを思いめぐらせているうち、ひとつの足音が辺りの静寂を割った。
 振り返れば馴染みの少年が、朝の冷え込みのせいか、ほのかに頬を赤く上気させて歩いてくる。
「ペペ、おはよう」
 リアナが声をかけると、ペペは垂れ目がちの眼を不思議そうに瞬かせた。
「あれ、リアナ? 今日おまえだっけ、当番」
「ううん、サキと代わったんだよ」
「っていうと、あいつも風邪? 珍しいな」
 リアナより三つ年下のサキは、浅黒く焼けた肌と同世代の子どもたちより一回り大きな背の印象的な、男勝りな少女だ。体調を崩した姿など、同じ孤児院で暮らすようになってこの方一度として見たことがなく、リアナも気掛かりではあった。
 反対に、目の前の色白な少年は、幼い頃は殊更に身体が弱かった。たびたび熱を出しては寝込んだ彼を、お気に入りの絵本を抱えて見舞ったのを思い出す。今のようなひどい流行り具合なら、あの頃の彼であれば、いの一番に寝込んでいたことだろう。
「ペペは元気そうで、よかった」
「なんだよ、それ」
「だって小さい頃のペペ、熱を出すとすごく長引いて、苦しそうだったから」
「いつの話だよ。俺もう、昔みたいに弱っちくねーし」
 言った声は途中でかすれたように上ずる。リアナと同い年,、じきに十四を数える彼は、いつの間にやら声変わりを迎えていた。
 気づけば、街の中はほのかに明るい。
 東の空に目をやれば、街を囲う外壁の隙間からゆっくりと太陽が顔を出してきていた。
「あ、お日様」
 白の街レミスタ。街の外周をぐるりと囲む分厚い壁も、その中に立ち並ぶ家々も、すべてが堅く真っ白な石で造られたこの街の朝は、とても美しい。
 橙色がかった優しい朝の光がゆっくりと街を目覚めさせていくこの光景が、リアナは一日の中でいっとう好きだった。
 しばし見惚れていると、隣から苦笑まじりのため息が聞こえてきた。
「ここからの朝日なんて、もう飽きるくらい見てるだろ」
「そんなことないよ。だって、朝の色って毎日違うの。それに、こんなに綺麗なんだもん。何度見たって飽きたりしないよ?」
「俺は朝日なんか見なくて済むんならそっちのがずっといいよ。はー、眠い」
 欠伸をかみ殺しながら言い、ペペは夜の間閉ざされていた教会の門を開け放った。
「さっさと終わらせちゃおうぜ。俺、街の方やってくるから、リアナはこの辺な」
「うん」
 明るさを増していく空を名残惜しげに仰ぎながら、リアナは掃除に取りかかった。

 石畳の上に点々と散らばった薄黄色の花弁を、箒で一か所に集めていく。
朝の掃き掃除は嫌いな仕事ではないが、盛りの時期もほとんどないままに枯れ落ちた花々をかき集めていくのは、なんとなく気乗りがしなかった。
 それでも仕方なしに黙々と手を動かすうち、ふと、教会の敷地と通りとを隔てる鉄柵の片隅に、見慣れぬものが目に留まる。
 膝を折り間近に覗き込むと、それは、ほとんど地を這うように咲く、ごく小さな群生花だった。花の色は純白で、街を囲む石壁よりもいっそう白い。光を弾くようなその清廉な色からは、強い生命力が感じられた。
 ほのかに丸みを帯びた花弁は、六弁が整った対称形に開いている。
 花のひとつひとつは小さいが、咲き乱れる様は目を引く存在感がある。どうして今まで気づかなかったのか、不思議なくらいだった。
「リアナー、おまえサボってるだろ」
 通りの奥から、ペペの声が飛んでくる。
「ねえ、ペペ。ちょっと来て」
 手招きすると、ペペは不承不承ながらも歩み寄ってきた。
「この花、こんなところに咲いてたっけ?」
 指差してみせると、ペペは浅く腰を曲げ、花の咲く辺りを覗き込んだ。
「この辺って確か、昨日かその前くらいまでまだ雪残ってたろ。それで気づかなかったんじゃないか?」
「あっ、そっか」
 言われて、リアナも思い出した。一日のほとんどが背の高い教会とシェリの木の陰になるこの辺りは、ごく最近まで冬景色の名残を残したままだった。
「じゃあ、雪の下でここまで育ったってことだよね? すごい、そんなお花があるなんて、知らなかった。ねえねえ、あとで図鑑で調べてみようよ」
「おまえって昔っからなんでもかんでも知りたがるよな」
「だって、ペペは気にならないの?」
「あんな分厚い図鑑調べる気は起きねえよ」
「もう、ペペはなんでも面倒くさがりすぎだよ」
 しょうがないなあ、と笑いながら、リアナが何気なく花の方へと手を伸ばした時だった。
 ――だめ!
 唐突に、耳元で声が響く。
「え?」
 リアナは思わず伸ばしかけた指先をぴたりと止め、ペペを振り仰ぐ。
「なんだよ、急に」
「今、だめ、って」
「俺、何も言ってないけど?」
 きょとんとしたペペの反応で、リアナはすぐに思い当たった。
 だとすれば――リアナにしか聞こえないあの《声》なのだろう。
「それより、あんまり油売ってるなよな。礼拝の時間遅刻したら、俺までシスター・ミセルに怒られるんだから」
 レミスティア教会一厳格な年嵩のシスターの名を挙げ、ペペは持ち場である通りの奥へと帰っていく。
「……うん、だいじょーぶ」
 聞こえるか聞こえないかの生返事をしながら、リアナの意識は、専らあの《声》の主へと向けられていた。
 懸命に空を仰ぎ咲く真白い花々に、ふわりと覆いかぶさるように。

 気づけば、《それ》はそこに佇んでいた。

 この世界にいつからか棲みついた、かたちなきもの。影も形もない、目に見えないけれど、たしかにそこに在るもの。
 《ヨミ》と、人々はその存在を呼ぶ。
 冥府を意味するその名がつけられた理由は、文字通り彼らがあまねく全ての生命を冥府へと誘い得る存在だといわれているからだ。
 ヨミたちは、かたちあるものたちの生命を喰らう。花や木々、鳥や馬、そして人間。あまねく生きとし生きるものたちの、その鼓動を生みだす命の輝きを。
 実体を持たぬ彼らの存在は、気配と呼ぶべきものでしか感じ取ることはできない。
 けれどリアナには、彼らの《声》が聴こえることがたびたびあった。
「ねえ。さっきのは、お花に触っちゃだめってこと?」
 ――そう。その花に触れてはいけない。
「それは、どうして?」
 かたちなき存在が返すのは、ただ花に触れるな、という強い《声》だけだった。
 《声》は、まるで彼らの意思そのものが直接リアナの頭の中に流れ込むかのように響く。それはむき出しの感情に近く、言葉でするような複雑な意思疎通はかなわぬことがほとんどだった。
 それでも、心の奥を揺さぶる声なき《声》には、痛いほどに切なる想いが滲んでいた。さながら、雛を守らんとする親鳥にも似た。
 だからリアナはそれ以上の詮索は諦め、大きく頷いてみせた。
「うん、わかった。お花には触らないようにするね」
 すると、対峙するかたちなき存在からは、安堵にも似た穏やかな《声》が流れ込んでくる。
「それより、ねえ。こんなに教会の近くまで来ちゃだめだよ。ここの人たちは、あなたを傷つけてしまうから」
 音もなく忍びよる冥府の使者を、人々は忌み嫌い、恐れる。だからこの街をぐるりと囲む外壁は、こんなにも分厚くて堅いのだという。
 けれど、どんなに堅く丈夫な石の壁を造ったとして、姿かたちのないヨミには関係のないことだ。リアナが彼らの存在を街の中で感じとったのも、今までに一度や二度ではないのだから。
 それでも、堅牢な壁そのものにこそ意味が無いとしても、それを築く人々の意志は違う。街の人々がヨミを恐れ、厭い、捧げる祈りは、確かにヨミを遠ざけるのだ。
 ただ、それでヨミが消え去ることはない。人々の負の感情が刃となり、ヨミを傷つけることはあれども、彼らは苦しみながら、それでも何処かに在り続ける。
 命あるものと相容れない存在であるとしても、彼らとて《生きて》いる。その在り方に、怖れよりもどこか憐憫を覚えてしまうのは、《声》が聴こえるからなのだろうか。リアナとてまた、彼らに命を喰らわれ得る、かたちある存在であるけれど。
「子どもたちが風邪で寝込んでしまったの、あなたたちのせいだって思う人もいっぱいいる。……ごめんね、あなたはなんにも悪くないのにね」
 ヨミを恐れる人々の気持ちも、ヨミたちの持つ不思議な温かさも、どちらもリアナにとっては近しいものだ。だからせめて、必要以上に彼らが厭われ、憎まれることがなければいいと願うのだ。
 ――キミが気にすることじゃない。
 そんな《声》が胸に灯り、リアナは淡く微笑んだ。
「わたし、そろそろ掃除に戻らなきゃ。ペペに怒られちゃう。じゃあね、みんなが起き出す前に遠くへいくんだよ」
 立ち上がり背を向けると、ほの温かい気配は、風の通りすぎるようにすっと遠ざかっていった。


 


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